ボクの想う「表現」というもの

 

長くなりますが時間がある時にでもゆっくり読んで頂きたいです。

先日、福祉業界が何故にアートに舵を切ったかというシンポジウムで自分なりに、振り返りすっきりした想いがあり、まとめさせて頂きました!!

 

ボクは誰もが生きてること、存在自体が表現だと究極は。。。

 

その中で、自己の在り方、外に自分から発信して、その結果的なものを内面にフィードバックさせ、自尊心的なものというのか。。。満足させようと生きていこうとするのだとさえ想う。

どうしても、生きてるだけ、存在してるだけでは自尊心は高まらないから。

 

外への自己発信として「表現」をとらえるなら、スポーツ、絵などアート全般、講演、仕事でもいいと想う、あらゆるものがその人にとっての「表現」となると想う。

 

「表現」を通して自尊心が高まり、「私は生きている」といった想いリアルに内面へもっていける。

 

ボクは病で入院する前は、運動馬鹿という程でした。今では笑い話ですが「脳みそまで筋肉でできてるんちゃう」と言われたくらいです。

でも、スポーツをすることで、ホントに、心から生きていることを味わえていました。そんな中、入院し多量に服薬することになり、10分も歩くことすら出来なくなった時期がありました。大好きなスポーツが出来なくなってしまったとき、自暴自棄になりました。

 

病院の野原で空を眺めていました。。。今でも忘れませんが、詩のフレーズが舞い降りてきたんです。その時から、感情というものをスポーツで昇華することだけじゃなく、詩やその後めぐり逢う、絵というものでも表現できるんやと気付いたんです。

 

これが、今でいう詩人artistけんぼーが産まれるきっかけです。

 

感情を表現するということは、自分を丸出し、個性そのものがそのままでているようにさえ感じる。

 

そして、アートでもなんでも表現されたものが自分自身の投影でありメッセージを含んでる、それが周りはどう想うのかな?というものに焦点が移行していくことがある。

 

それが、いわゆる周りがつける価値や評価

 

でも、ボクは詩人artistけんぼーとして変化をもてたのはその点に関してである。価値、評価、コンクールでの賞。。。にも勝るモノがあるということ。

 

病をもち、障がい者となり啓発活動の一環で活動をし、一般の方々(障がい者予備軍とも言おうか。。。)とコミュニケーションを持つ中で、自分のメッセージで目の前の人が喜ぶ、楽しそうにしている、ありがとうと言ってもらえる、涙まで流されてしまう方もいる、「けんぼーさん、安過ぎですよ」「自分を安売りし過ぎですよ」「高いので買えません。。。」色んな方を目の前にして、自分はまだ人の役にたてることがあるんだ。。。自分は生きててよかったんだ。。。こちらの方がありがたいです!!という社会との繋がりをほんとにマジマジと感じれるんです。コンクールについて言えば、飾られたということ、またそこに脚を運び、自分の作品が多くの方の目に触れられる機会となっていることとともに、見て下さってる瞬間、また言葉、表情を自分で目にすることで賞云々は二の次になるんだろうと#想えるようになった。

 

「想いが表現できる媒体があるということ」「社会との繋がりを感じれて自尊心を高められるということ」この2点はすごく重要だなと想いました。

 

障がい者であってこれらが重要だと言うにとどまらず、生きている誰しもに言えることのようにさえ想います。